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経済・政治・国際

2017年5月 9日 (火)

原爆

 原爆使用の是非について戦後いろいろと語られてきました。

私は、どんな理由であれ原爆の使用は正当化されてはいけないと考えます。これは全人類共通の普遍的原理として世界が共有すべきことです。一旦原爆の使用を認めると、将来必ず大義を掲げて原爆使用を正当化する輩が出てきます。その意味で、日本は原爆使用を絶対に認めてはいけないのです。それは、単に原爆を投下したアメリカを批判するということではなく、普遍的原理として、理由に関係なく手段として原爆を使用することそのものが過ちであることを認めさせることです。

 アメリカが広島、長崎に原爆を投下した理由と、原爆使用の是非を一緒くたに考えてはいけないと思います。日本が原爆の使用を少しでも認めた時点で、正当化への道ができ、現存する核兵器保持の必然性が出てきます。核兵器の存在そのものを無意味なものにするためにはただ一つ、如何なる理由であっても使用の正当性は全く無いものだという国際的、道徳的規範を作り上げることです。

広島の「安らかに眠って下さい/過ちは/繰り返しませぬから」という文面を刻んだ原爆慰霊碑には率直に違和感を感じます(アメリカが言うのならわかりますが)。

 二度と使わせないための世論づくりの責任は、唯一の被爆国日本にあります。被爆した日本が原爆投下を認めたために、核兵器が使用可能兵器として拡散してきたと非難されないようにしなければなりません。

2017年2月22日 (水)

「トランプ」発言

 トランプ大統領が世界を賑わせていますが、安倍総理との会談後の記者会見で「沖縄県の尖閣諸島は、アメリカによる防衛義務を定めた日米安全保障条約の100%適用範囲である」と発言されました。日本のメディアは、大統領の発言だけを何回も報じましたが、その言葉の意味についてどう解釈するのかについては全く説明していません。お茶の間で聞いていると、まるで、日本は何もしないでも、中国が実力行使して来たらアメリカが100%守ってくれると理解しているのでないかと心配になります。


日米安全保障条約の第五条をよく読んでみます。
【第五条】 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。


日米安全保障条約第五条の適用要件

 「日本国の施政の下にある領域」が適用範囲です。自国の領土だと主張していても実際に施政下にないと適用されません。従って尖閣諸島は、現在は日本の施政下に入っていますので、100%条約の適用範囲ですが、万が一中国が突然上陸を強行して島を領有したら、その時点で日本の施政下でなくなりますので、条約の適用外になります(竹島の例)。ここが問題です。中国が上陸を強行しようとしたとき、日本は力づくでも上陸を阻止しなければなりません。過去に上陸強行事件や漁船の衝突事件などがありましたが、いざというとき自衛隊は出動できるようになっているのでしょうか。

 「自国の憲法上の規定及び手続きに従って」行動するということは、最低限アメリカ議会の承認がないと出動できません。承認が得られる条件は、アメリカの国益に適うかどうかと、日本の汗の掻きかたによると思います。日本がアメリカ議会を説得できないと支援は得られません。

 こう考えてみると、トランプ大統領のリップサービスは、耳触りはいいのですが、現実は厳しいということを日本国民として理解しておく必要がありそうです。

 もちろん、竹島も北方領土も日本固有の領土ですが、施政下にない現在は安保条約の適用外です。又、日本から武力攻撃しない限り紛争は起きないので、この点からも適用にはなり得ません。

2017年2月21日 (火)

「憲法9条が平和を守ってきた」?

 護憲派の方が、口癖のように言われます。

「戦後70年、日本が平和で来れたのは憲法9条があったからだ。だから、絶対に変えてはいけない」

でも、ちょっと待ってくださいよ。

結論から言うと、現実に日本を守ってきたのはアメリカの核抑止力と在日米軍のプレゼンスではないでしょうか。

敗戦後の日本列島の力の空白を埋めるために、米軍が駐留し極東の安定を担って来ました。朝鮮戦争では、手薄になる日本をカバーするために、アメリカは日本に警察予備隊(自衛隊)を持たせました。しかし、自衛隊は必要最小限の自衛手段としての軍隊であり、在日米軍の代わりは到底できず、安全保障条約の下、現在も米軍の力を借りて日本の安全を守っています。


 憲法9条はただの文言です。お守り札でもなく、条文に戦争が起きないというご利益があるとは思えません。第一、戦おうとする相手の国が日本の憲法9条を見て、手を出すのをやめるのでしょうか?

 護憲派の方は、国内の戦争好きがおかしなことを考え行動しないようにこの9条で抑えつけておこうというお考えのようですが、ならば、解釈改憲などと云うこじつけはやめて、実態に合わせた条文に変えていけば良いのではないでしょうか。 たとえば、「日本は、侵略戦争は一切しません。しかし、国を守るためには軍隊を持ちます」とか。

外国からみると日本国内の憲法議論がよく分からないようです。


 今の憲法条文を素直に読めば、自衛隊は違憲状態だと思います。では、自衛隊は要らないのか。極東の安全と日本の平和をすべて米軍に守ってもらうのか。それとも実体に合わせた憲法に変えていくのか。国民に判断が求められています。日本がアジアでほとんど唯一植民地化しなかったのは、幕末までの尊皇攘夷と、明治維新の殖産興業、富国強兵です。

2017年2月20日 (月)

「拉致問題」

 金正男氏が暗殺されましたが、映画みたいな世界が現実にあるんですね。で、彼の国との間の出来事で一言。

 

 拉致は「人さらい」で、非合法的手段で行なわれたものです。それに対して、理屈だけの合法的な話合なんかでは決して戻っては来ないと思います。解決策としては、実力で取り戻すか、金で解決するしかないのではないかと考えます。実力行使も外交戦術の一手段と考えますと、結局、国民が腹を決めて政府に対して拉致被害者を取り戻すために、実力行使や裏金を使っての買収も厭わないという権限を与えられるかということになります。

 もちろん、「実力行使」とは何もいきなり武器を抱えて攻めるということではなく、ブラフをかけてだんだん追い詰めて行き、ギリギリまで攻め込むぞという姿勢を見せることです。「裏金」は、対外的な問題(面子や諸外国との関係)もありますので、交渉には経済援助+αが必ず必要になると思います。

 

 今、国民に求められているのは、善意の第三者的立場での意見や、マスコミに乗っかっただけの政府批判ではなく、国民が決断し政府を動かす責任力だと思います。

 例えば、国民投票で憲法を改正してでも助けに行こう! という気概が必要だと思うのですが・・・。それ以外に、通常外交交渉で問題が解決するとはとても思えません。その意味では北方領土も竹島も同じです。決して政府だけの問題ではありません。

2017年2月19日 (日)

「日米関係」

 安倍総理大臣が、ハワイの真珠湾を訪れました。いろいろな感慨を持ちました。

 現在、米国依存の安全保障体制からの脱却を声高に言う人たちがいますが、日本が本当に自主独立を目指して米国との距離を置き始めたら、日本の立場は第二次大戦前の日本、米国、中国との関係に似てくるだろうと思わざるをえません。

 

即ち、米国(英国も)は中国の権益確保のために、裏から中国を支援して日本にブラフをかけさせる。中国は自国のプラスになればと、対日強硬姿勢を強める。米中が協力すれば、日本を両国にとって御しやすくなることで、双方の権益を確保するという政策を取るだろうと予想されます。まさに、第二次大戦前の米中関係と同じことが起こる危険性があります。

 

そもそも米国は、日中戦争で日本が中国大陸の権益を独占されるのではとの危機感から日本にライバル意識を持ち出しています。

 

外交は狡猾で厭らしいものです。日本人は、何ごとも白黒で判断する二元論的意見が大勢を占めます。だから、マスコミがちょっと煽るとダーッとそちらへ靡きます。恐ろしいことです。日本はそうやって大戦に突入していきました。決して軍だけが走ったわけではないと思います。

 

今の極東安全保障体制がベストかどうかは分かりませんが、中国の台頭、朝鮮半島の不安定化などを見ると、対案は今のところないように思います。特に、日本が安全保障面で脆弱になったら、極東情勢は一遍に政情不安定になること間違いないでしょう。

 

2015年11月 6日 (金)

『やってはいけないこと』はやってはいけない!

 杭打ちデータ流用事件で思ったことがあります。最近はちょっと振り返ってみただけでも、肥料データ偽造、耐震ゴム強度偽造、エアバッグクレーム対応問題、構造設計書改ざん問題、自動車のクレーム隠し問題やなんやらと、企業が起こす不祥事件がやたらと目に付きます。共通することは、内部統制システムの欠如とかあるかとは思いますが、事の性質が偽造したり流用したり改ざんしたりと、企業や社員に決定的に基本的モラルが欠けていることです。ではなぜこんなにもモラルが欠けてしまっているのでしょうか? 遡っていけば、結局教育問題に行きつくのではないかと思っています。

 実際に手を染めた直接の当事者、それに加担した者、知っていても何も咎めなかった人、直接ではなくても暗にプレッシャーをかけた上司、それを暗に認め受け入れてしまう企業体質・・・。やってはいけないと知りつつもやってしまう、この歯止めが利かなくなった体質の根本は、今まで体に沁み込んでいた「やってはいけないことの境界線」がなくなってしまったからではないでしょうか。

昔、親や周りの人たちからよく言われたこと曰く、

・父親

 「そんなことをして恥ずかしいと思わないのか!」

・寅さん

 「それをやっちゃあ おしめぇだよ」

・母親

 「誰も見ていなくても お天道さまは見ているのよ」

・同僚

 「あんたがやっていること、子どもに言える?」

 これらのフレーズに共通することは、元々私たちには一線を超えてはいけないルール(規範)というものが体質として沁みついていたと思うのです。それを大人たちが日常生活の中でうるさく優しく教えてくれたものでした。これが消えてしまいました。なぜでしょうか?

 戦後教育の自由に対するはき違い指導、それと道徳教育をしてこなかった罪があると思います。又、日本に連綿と続いていた武士道精神(恥の文化)が忘れられてきたことが挙げられると思います。

 いまこそ日本人の精神的原点に立ち返り、まともな大人になるために、やってはいけないことは厳しく教え体に叩き込む教育を復活しないと、同じ事は再び繰り返されるでしょう。行政や先生だけに頼るのではなく、親が率先して躾け、自治体(隣り近所)にそうした「やってはいけないよ!」をきちんと言える風土を作っていかなければならないと強く感じます。強い自戒を込めて・・・。

 関連して、宮本常一著の「忘れられた日本人」を思い出しました。名著です。

以上

2015年9月25日 (金)

国立競技場建設問題

 国立競技場の建設が白紙に戻り、決定の経緯についていろいろと議論されていますが、今回の件に限らず、行政の意思決定のありかたに率直に疑問を感じます。

 縦割り行政の典型的な欠陥でしょうか、関係省庁・組織が複数あって、それぞれの部門が管轄範囲内でのみの限定した意志表示しかしないため、部分ではなく全体としての結論が、特定の責任者によって決められないという構造的な問題があります。今回でも、結局誰が最終的に意思決定したのかという問いに応えられませんでした。これは、隠しているのではなく、そういう決め方(責任を取らない決め方)をしてきているからです。

 最近、山本七平氏の『「空気」の研究』という本に接しました。

責任の所在がはっきりしない、物事が決まった経過が良く分からない、なんとなくその場の雰囲気が物事を決めてしまう、その場の空気に支配されるなどなど、日本独特の現象を解き明かしている名著だと思います。この中で、戦時中の軍参謀本部の意思決定もまさしくこの空気の中で決められたことが書かれています。戦艦大和の沖縄戦への無謀な出撃なども、無理だと内心分かっていてもその場の雰囲気では、誰も反対できなかったと言うことで実行された由。結局、だれが決めたのかは誰も分らない状況だったそうです。南京攻略の意思決定も、誰が最終決定者かあいまいだったそうです。


 戦時の意思決定手法が現在も連綿として引き継がれているのです。これは、或る意味恐ろしいことです。


 今回の問題で解決すべきは、責任者の辞任ではありません。そもそも誰が決めたのか分からないのに、建前上の責任者を首にしても何の問題解決にもなりません。縦割り行政の組織構造にまで立ち入って真の原因追求と、原因解決のための組織の立て直しをしないと、日本の抱えている構造的問題は解決しないと思います。

2015年8月10日 (月)

核のゴミ処理とメディアの報道姿勢

 地方自治体が、放射性廃棄物の処分受け入れについて反対表明をしている報道がされていますが、一言。

 放射性廃棄物は現存しますし、必ず処分しなければなりません。ということは、原発に依存してきた日本人として、責任を持って何とかしなければならないのです。みんなで反対したら廃棄物処理問題は解決するのでしょうか。代案のない反対は責任逃れ、自分さえよければ式の甘えた話です。与党も野党もありません。国会で議論してほしいのは、原発の賛成反対の議論とは別に、既存の廃棄物を含めて核処理サイクルを最終処分まで含めて具体的にどうするかを国民に問わなければならないと思います。それが政治家の責任です。


 一方で、原発再稼働の賛否が議論されていますが、どちらであれ廃棄物処理は必ずついて回ります。特に原発反対を言われている方に申し上げたいのですが、反対しようが今すぐ原発を全廃しても廃棄物処理はついて回るのです。高レベル放射性廃棄物の無害化には10万年かかるそうです。ここ50年や100年の話は、問題ではありません。


 メディアにお願いしたいのは、核処理サイクルの確立は原発再稼働の賛否とは全く別次元の問題であり、日本人が、日本人として責任を持って解決しなければならない問題であることを報道の基本姿勢として欲しいのです。その意味では、メディアもただ国民の不安感情を煽るだけの報道から、国民へ提言し、又、自らの意見も具体的に述べる責任があると思うのですが。

2015年7月31日 (金)

「有事」と「想定外」

 現在、国会では有事法制についての議論が活発に行われています。とある一日、ずっと聞いていましたが、なんしかピンときません。的が外れているのか、平和ボケしている国会なのかよくわかりませんが、私は「いざという時の備え」は当然のこととして日頃から準備しておくべきと考えています。国会には、ぜひ「どう備えるか」の議論を戦わしてほしいと思います。

 日本人は島国でもあることと鎖国時代が長く続いたせいか、明治開国以来、外からの脅威があって始めて動き出すという感覚が身に沁みついているようです。精神的鎖国状態とでもいうのでしょうか。でも、いざという時の備えをしなかったための事故は東北大震災で実際に経験したのです。あり得ないことが起ったのです。今までの原発に対する考え方は、行政の安全神話の中で運営され、万が一のことは「想定外」として考えないようにしようと避けてきました。でも、その万が一が起ってしまいました。有事も一緒だと考えます。「どこも攻めてなんか来ないよ」とか、「憲法9条があるから大丈夫」とかこちら側の都合だけで決めつけてしまっていますが、争いはむしろ相手の都合から起こります。拉致、テロ、領土問題、サイバーテロ、海洋覇権争いなどなど、平和時にはない戦いが理屈抜きでいきなり起こります。いや、もうすでに起こっています。

 なぜ、日本人は普段からいざという時の備えができないのでしょうか。そう言えば、昔は家の鍵も閉めずに暮らせたものですが・・・。世界と共に共存していくためには、世界標準の暮らし方を身に着けないと、気が付いたら身ぐるみ剥がされていることになるのでは、と、国会審議を聞いていて思いました。

 尚、この意見は、現在審議中の安保法制のどちら側の見解にも与するものではありません。

ありがとうございました。

2014年7月12日 (土)

号泣会見と問題解決手法

 野々村議員の号泣会見がメディアを賑わせましたが、見ていて問題の取り上げ方と解決手法に疑義を感じて一言。

疑惑が起きた時、出張が事実かどうかばかり追及しようとしていましたが、これは間違いと考えます。刑事事件として立証しようとすると、証拠が確定しない限り疑惑のままで終わってしまう恐れがあります。今回も、結局辞任で幕引きとなりそうですが、これって結局個人の問題で終わってしまい、政務調査費の使い方そのものについての問題も明らかにされず終わってしまう最悪の終わり方です。議会もこれで結着してしまおうという魂胆が見え見えです。

 今回のケースの場合は、正々堂々と議会で質疑応答をすれば良いのです。彼の行動が正しかったかどうかに関係なく、本質の質問をするのが正しい手順と考えます。

曰く、

「今回の政務調査の目的を具体的に説明して下さい」

「城崎温泉に105回行く政治的理由を説明して下さい」

「105回の調査内容を具体的に説明して下さい」・・・

「成果と評価結果を聞かせて下さい」

「今後の政治に調査結果をどのように生かしていくのか具体的に説明して下さい」

要は、行ったかどうかで攻めるより、仕事の内容で追いつめて行った方が問題の本質が明らかになってくると思うのです。本当に行ったかどうかは、自ずと明らかになってきます。

単に、個人の政務調査費流用の詐欺事件ではなく、政務調査の実態と費用の相関関係が常にオープンになるように議会は透明性を確保する必要があります。領収書があるかどうかは大切ですが、使い方の方がより大きな問題だと思いますがいかがでしょうか。

ありがとうございました。

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