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日記・コラム・つぶやき

2014年4月12日 (土)

「佐村河内さん」と「小保方さん」とメディア

 私は、寡聞にして佐村河内さんも小保方さんも全く存じ上げませんでした。だからご本人に対する感想は何もありません。しかし、メディアの対応を見ていて、なんしか共通するものを感じました。

報道する側に固定概念(主人公はこのような人間のはずだ)があって、番組の企画段階で視聴率を取るために極端な編集意図が入り、主人公を結果として偶像化、神格化してしまっているような気がしてなりません。

 私も実際に経験したことがあります。昔、私の母が警察から表彰されたことがあります。それは、父が警察官で家庭を顧みず警務に没頭し、それを内助の功で後ろから支えてきたことを賞したものと思います。当時、新聞記者が取材に訪れて写真を撮る時、内助の功が見て分かるように、父の目の前でお茶碗に急須からお茶を入れる場面を撮影し、実際に新聞に載りました。私はその頃まだ小学生だったと思いますが、おや? と感じました。実際に両親のそのような場面を見たことがないからです。なぜなら、父は家には殆ど居らず、お茶を飲むようなシーンは一度も見たことがなかったからです。内助の功は、目で分かるもの、分からせるものではないように思います。母が6人の子供を必死で育てているシーンなどはあまり絵にならないのでしょうか。

 今回の一連の報道も、報道側に明確な意図があって、それを読者に伝えるためにある意味無意識のうちに編集してしまい、ストーリーを作り上げてしまっているように思えてなりません。最も怖いのは、読者側がそれを真実と受け止め、世論が作られていくことです。

 今のメディアの姿勢は、自ら情報を意識的に作り上げて流し、その反応を更に映し出すことで、流行を創り上げているように見えますがいかがでしょうか。

以上

2012年3月17日 (土)

さようなら『ブルートレイン』

 Cimg5140 青森から大阪まで走っていた寝台特急「日本海」が、ダイヤ改正により3月16日で終了した。この列車には私も熱い思い出があり、人生のエポックメイキングとなった列車である。
 
昭和45年3月30日、北海道 屈斜路湖畔の町、実家があった弟子屈町を出発して札幌  函館 ~(青函連絡船【写真は摩周丸】)~ 青森 ~(「日本海」)~ 大阪 と、足掛け3日かけて就職の為、青森から寝台特急「日本海」に乗った。
 
当時は北海道もまだまだ雪深い季節で、弟子屈は雪がメートル以上積もっていた。帽子と手袋をし、オーバーを着、内側が毛で覆われたスパイクの入った防寒靴で出発。大阪まで行くのは就職試験以来で、生活するのもむろん初めてである。
 
就職が決まった時、周りからは「お前みたいな奴は、関西に行ったらイチコロで食われるよ」とか「すぐに騙されるわ」とか言われて脅されたものである。当時は、「細うで繁盛記」とか「どてらい奴」「しぶちん」とかの番組をやっていて、子供心に「大阪って怖いな」と思っていた。
 
札幌から青森までは、さほど季節の差は感じることもなく「日本海」に乗り込んだ。確か、青森を夕方に出発して翌日の朝9時ごろに大阪に到着したと覚えている。私が一番驚いたのは、大阪の季節だった。何の予備知識もなく、ただバッグ一つで集団就職のようにして大阪駅へ着いてみたら、何と、サラリーマンは皆ワイシャツ1枚で歩いており、桜がそちこちに咲く季節になっていたことである。当の私は、北海道から出てきたので完全な防寒仕様。小さい日本と思っていたが、こんなに季節の差があることに驚いたものである。
 
昭和45年は、ちょうど大阪万博が開催された年で、高度成長真っ只中での就職だった。大阪はスモッグがひどく、北海道から出てきた私は目がかすんだように見え、喉を傷めた覚えがある。
 
そんなこんなで40有余年、ブルートレインと共に私も今日まで育ってきた。そういう意味では、ブルートレインとは同時代を生きた同志のように親近感を覚える。
 
「日本海」よ、長い間お疲れ様、ありがとう!

2012年1月27日 (金)

『司馬遼太郎記念館』再び

Book02071420  過日、妻と「司馬遼太郎記念館」を訪れた。交流会で訪問してから二度目である。今回は「坂の上の雲」を特集していた。二度目でも新鮮な知的空間を肌に感じる。「坂の上の雲」で司馬遼太郎さんが表現しようとしていた、国の有り様、政治家、軍人の態度・行動、国民の意識などなどは、現在起こっているさまざまな問題とそれへの対処を見ていて、現代が明治時代よりも質的に後退してしまっているような気がしてならない。

 江戸時代、露西亜の南下政策に対して時の江戸幕府が、鎖国の中でも毅然とした態度で外交方針を立てていたことを知り、今の外交のありようを見ていると科学技術や社会資本の発展充実にも拘らず、知的生産性や人間(日本人)の質がだんだん落ちてきているように見える。

 そちこちの政治家さんも「司馬遼太郎記念館」をたまに訪れて頂き、少しは空気を感じて欲しいものだ。既に訪問されている政治家さん、ごめんなさい。

2011年12月17日 (土)

「かつける」

Cimg6738 福井へ引っ越してきて地元の人と話していたら、「あいつはすぐ人にかつけるんだ」と話しているのを聞いた。

「かつける」という言葉は、「人に押し付ける」とか「人のせいにする」とかいうような意味だと思うが、この言葉は私が北海道にいた頃、子供の頃から良く使っていた言葉で、何十年振りに聞いた言葉だ。

 過日、「福井県立歴史博物館」へ見学に行った折り、『北海道移住』というパンフレットがあったので持ち帰って読んでみると、明治時代、屯田兵入植後、北海道開拓に福井県から多数の人が移住していることを知った。栗沢、南幌、富良野、愛別、三石、千歳、羽幌、遠別、池田、札内などなど、何万人もの人々が福井県から移住していたことが分かった。

 そういえば、私も親の仕事で北海道内を何ヶ所も転居したが、内地の風習が町ごとにあった。この言葉も福井から来たのだろうか。大阪、長浜に続いて、福井と北海道がつながった。

 因みに、富良野のラベンダー農園は、福井県大野市からの移住者の子孫が開いたものだそうで、ますます縁が深まった。

2010年4月 3日 (土)

日本の良さを見直す

 今朝(H22.4.3)、テレビで「ここが変だよ日本人」という街頭インタビュー番組をやっていた。外国人から見た日本人や日本文化で驚いたことや興味を惹いたことなどを語っていた。その中で2人ほど、私が「へえ~」と思った、海外から来ている人の言葉。

「日本のお寺に行って驚いたことは、線香の匂い、そして木や畳の匂いに感動した。ガイドブックにはそのことが書かれていない」

  ⇒ お寺の外観ではなく、匂いに感動していることに注目!

「日本で一番好きな季節は“梅雨”。緑が濃くなり、木々や虫が『生きている!』と感じるから」

  ⇒ 四季がはっきりしている日本は、それ自身が観光資源だ。

観光庁に言いたいこと。「箱物は要らない。どこまでも透き通った真っ青な空、緑深い木々と色鮮やかな花々。澄んだ空気。人見知りはするが素朴で人懐こく暖かい日本人の気心、これを資源にすれば、必ずリピーターになる」

ありがとうございました。

2010年3月15日 (月)

「単身赴任」5年目!

Cimg3111 単身赴任生活をしていて、しみじみありがたいと思うものがある。

一つは「孫の手」。もう一つは「暖房便座」。

「孫の手」は家に2本(リビングとベッド)、会社に1本常備している。本当に痒いところに手が届く優れもの。一人だと、いざという時に重宝する。

「暖房便座」。

冷え切った家に疲れて帰って、トイレに入って座ると、優しく迎えてくれる。文句も言わずに暖めてくれていて、本当に癒されている自分が少し切なくなったりするが、まことにありがたいものである。

 単身生活のいいところは、自分で自分の時間を有効に使えることである。ただし、やる気がおきないと無駄な時間を過ごしてしまうが、ノっているときは、いろいろなことが出来て充実する。現在は、名所旧跡の探訪、読書、HPの更新、などなど。

ありがとうございました。

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