先生の顔が見えない
いじめに関する事件は毎日のように報道されていますが、今回の岩手県矢巾中学校でのいじめによる自殺事件でさらに強く思ったことがあります。以前からも常々感じていたのですが、いじめが実際に行われているのは教育の現場であり、その現場にいるのは先生です。その先生の顔がメディアには一切出てこないのです。何故でしょうか。メディアは先生を被告人的な扱いでインタビューしようとするから日教組なり教育委員会が匿うのでしょうか。それとも先生自身の意志で逃げているのでしょうか。
自殺という事実を目の前にして、校長なり教育委員会が代弁しているのが気に入りません。正々堂々先生が前に出て、自分のやってきた教育指導と生徒の評価をきちんと先生の言葉で言うべきです。もちろん、メディアは被疑者的な扱いでインタビューしたりすることは厳禁されなければなりません。ここが正常化されないと教育の改革は全く進まないと考えます。
昔のことを言っては何ですが、子どもの躾は家庭の責任で、学校で秩序を乱す者に対しては、先生が懲罰的教育指導をするのは当たり前でした。親も、先生には「うちの子が悪いことをしたらどうぞびしびし叱ってやって下さい」とむしろお願いしたものです。先生と生徒の関係が上下関係から水平の関係になってからおかしくなったような気もします。人間の基本的人権は平等だとは思いますが、子どもには子どもの人権、大人には大人の人権と、それぞれ価値と内容は全く違います。これを同一視してしまうと、判断力のついていない子供が権利の意味を誤解して濫用してしまいます。
最近、やっと道徳の授業を再開するようですが、知識の教育より以前にその前提となる人づくりが喫緊の課題だと思えてなりません。
それと繰り返すようですが、メディアの報道の画一的な横並びの偏りにもの凄い疑問と不満を禁じ得ません。
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コメント
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お待ちしてました、ブログのアップ!
私のように子供はおろか結婚もしていない人間が何をかいわんやですが。。。
全く同感です。
親は子供を家庭内で躾けます。 まずこの基本ありきですが・・・
しかし、学校に入り、社会に入るとその現場で接する大人が気が付いたら注意する、叱る、良い方向に導いてやるのが大人の仕事だとも思います。 現実に、自分も学校の先生にこっぴどく叱られ、殴られ、蹴飛ばされて育ち、会社に入ったら怒鳴られ、叱咤激励されてきました。 その時は苦しく恨みがましく思ったのですが、今となっては「あれが社会で生きていくすべを教え、今の自分を作ってくれた。」と思えるのです。
確かに暴力はいけません。 しかし、学校の先生は手加減というのを知っていました。 今と昔で違うのは、おそらく大人が「喧嘩の仕方」を知っていたのでしょう。
気に入らない事があればその相手に真正面に立ち向かい喧嘩する。 いじめたり、自分の過ちを人に片付けさせるのを「卑怯」と言ったものですが、この言葉、最近聞きません。 違う「聞こえの良い」言葉にすり替わっていったのかもしれません。
「人に訴えられない防御策」「面倒くさい事は誰かにやらせる」これが昨今の世渡りというもんなんでしょうか・・・
投稿: ぼちぼち村長 | 2015年7月30日 (木) 09時13分
ぼちぼち村長 様
早速のコメントありがとうございます。いつも的確なコメントを頂き、自信が湧いてきます。すべらないように、なんなりとご指摘ください。もっと言いたいことを言えるように頑張ります。
ありがとうございました。
投稿: 浪速の読書人 | 2015年7月30日 (木) 22時00分